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20歳のころに出家した臨済禅師は、各地をめぐり修行をしましたが、お経の知識を得るだけでは満足できないときに、黄檗希運禅師に出会ったのです。このように独脱無依の人間性の自覚から、真に自由な人生を創造してゆくことを、臨済禅は宗旨とするのです。曹洞禅が、坐禅を悟りの修道の手段とせず、悟りの姿そのものの坐禅に、ひたすら徹するのに対し、臨済禅は、先人の開悟時の機縁・問答を坐禅して参究し、それを日常底において究明するのです。

黄檗禅師のもとで修行をした臨済禅師は、さらにすすめられて大愚和尚のもとで修行をし、さとりを開いたのです。12世紀後半から、13世紀初頭にかけて、曹洞宗の一流のほか、24流の臨済禅が宋時代の中国から日本に伝えられたのです。24流のうち日本に現存するのは、臨済下十八世の南浦紹明が伝来し、紹明下十九世の白隠慧鶴 によって中興された一流のみが、その命脈を保っている。江戸期に隠元隆琦によって伝来された流派は、黄檗宗を名のるが、南浦と同じ流派の臨済禅なのです。

臨済とは川の渡しをのぞんだところという意味で、そこにあった小さなお寺に義玄禅師が住んでいたことから、臨済宗といわれるようになったのです。真理は言語、文字表現を超えているもので、その心の真理は、師の心から弟子の心へ、直接心から心に伝えられるものなのです。だから、禅宗では、その系譜が重んじられるのである。臨済宗が日本に伝わったのは、鎌倉時代のはじめごろに栄西禅師によってなのです。はじめのうちは新しい宗教ということで、京都では布教できず、鎌倉で源頼朝など、武家を中心に広まったのです。

禅の日本伝来は、当然ながら、中国の近世文化の伝来をも伴うもので、文学・美術・建築・食品など日常生活にわたって、日本文化の発展に大きな寄与をしたのです。鎌倉時代も中期になると、中国から高名な僧が来日し、鎌倉に大きなお寺を建てたのです。このころから、京都でも少しづつ禅が根づいていったのです。特に、臨済禅は、単なる技術を心の修道に昇華させて、茶道・華道・書道・武道・絵画・庭園などの日本独自の生活文化形態を創造したのです。そして、今日も庶民の中に生きつづけていることは、注目に価することなのです。






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